「歴史から学ぶ」ということ -Manzanar 年表 –

Auto Tourのコースに沿って

車で移動しながら収容所内を巡ると

新聞社、管理事務所、高校、体育館、消防署、防火通路

農場、野球場、カトリック教会、仏教寺院、牧場、庭園

病院、孤児院、工場 などの跡地が確認できます。

1万人の人々が暮らす完全なる「社会」が確かに

存在していたのだなあと感じます。

 

マンザナー年表 1942-1945

を見ても、4年間という時間の中で、日系人の人々が

過酷な環境のなかでも、より良い住環境を目指し、

自給自足で足りないもの全てを自分たちの手で作り出し、

さらには憩いの場である庭園や趣味の場まで

生み出していたことに驚かされます。

 

 

 

バラックでの生活を再現した展示物

トイレやシャワー室などの仕切りもなく

プライバシーがなかったことが何より辛かったという証言も多く残されています。

部屋の間仕切りもなかったため、

布で仕切りを作るような工夫もしていたようです。

 

 

 

家具はもちろん手作り。

緻密つくりの家具が複数展示されています。

今見ても、クオリティの高い職人技を感じます。

 

生まれてきた命    541名

結婚         188組

亡くなった人     135名

 

小学校(1-6年生)         1001名

高校(7-12 年生)       1376名

孤児院   新生児から10代の子供まで101 人が暮らす

 

 

日本の行事や文化を大切にしていたんですね。

 

また、図書館は24000冊の蔵書を誇っていたとか。

最初は寄贈された17冊、雑誌80冊からのスタートだったそうです。

 

餅つき大会も開催されていました。

 

 

 

墓地には1943年に建立された大きな慰霊塔が立っています。

拘留中に135名の日系人が亡くなられています。

その中には赤ちゃんや子どももいます。

 

慰霊塔

「霊を慰める塔」

「故人を偲ぶ記念碑」

「ここは人類全ての霊を慰める場所である」

という意味が込められているそうです。

 

311の震災後

震災当時の記憶や、震災後の生活の記録などを

ドキュメンタリーで映像に残していた友人がこんなことを言っていました。

「歴史って

何も為政者や有名な人たちが作っているものってだけじゃなく

名もなき普通の人たちのごくごく普通の日常、

生活の積み重ねで構成されているものだと思うの。」

今回の展示を見終わって、

最後に慰霊塔の前に
立った時、ふと彼女の言葉を思い出しました。

 

いつの間にかサンディエゴでの暮らしが長くなり、

幸い私は、これまでの生活で、理不尽な差別を受けることもなく

平和に幸せに、周りの人たちに助けられて

子供を産み、育てる

母としての豊かな時間を過ごさせてもらってきました。

 

でもそれは決して当たり前のことではなく、

マンザナーで想像を絶する過酷な運命と向き合い、

壮絶な苦しみを乗り越えてきた

先人たちの苦労、忍耐があってこその

平和、平等なのだということを今回改めて強く感じました。

 

一方、長い長い時間はかかりましたが

1988年レーガン大統領による公式な謝罪

日系アメリカ人補償法への署名により

過去の歴史の過ちを認めたこと。

マンザナーを国定史跡として残し、語り継ぐことで

歴史から学ぶ機会を残したアメリカの姿勢は評価すべきことだとも

思います。

 

戦争の歴史は、往々にして勝者の論理で語られてしまいます。

でも、敗者側からの視点、虐げられた側の視点で

語られる歴史をきちんと知ることも大切なことではないかと思います。

 

マンザナーが舞台の小説 TBSドラマのノベライズ

 

アメリカ留学中の孫娘から戦争のことについての疑問に答える形で構成された本。

アメリカ史の授業/課題の内容なども知ることができます。

 

 

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